暴風に身を煽られ、天地を揺るがす衝撃の後。
気付けば私の五感は虚無によって支配されていた。
最後に見たもの――透けるように遠い青空。
そう。あの中に、私は踏み入ってみたかったのだ。
例えるなら手足を切断されたもの。
いつも地べたをはいずり回ってもがき苦しんだ。
そうやって生きてきた。
脚が無いことを忘れて、幾度も立ち上がろうとした。
あの遠い空に少しでも近付きたかったから。
そして立つ脚が欲しいと泣いた。
脚が無ければあの空には近付けなかったから。
腕が無いことを忘れて、幾度も手を伸ばそうとした。
あの遠い空に少しでも触れてみたかったから。
そして伸ばす腕が欲しいと泣いた。
腕が無ければあの空には触れられなかったから。
触れられないものが多すぎて。
私に触れてくれるのは風と泥、それだけだった。
ある日神様は私に言った。
辛いことの後には楽しいことがあるのです。
信じたものは必ず救われますよ、信じなさい。
私は神様を信じて信じて信じて信じた。
時には裏切られることすらあった。
でもそれすら私を諦めさせることは出来なかった。
神様だけが私の最後の希望だった。
神様さえいれば私は何も苦しくなどなかった。
少ししたある日神様は教えてくれた。
僕は青空の中に住んでいるのです。
毎日朝と夜に、沼地の端の崖から虹が架かります。
その虹を越えた向こう側に、僕はいるのですよ。
虹を渡りたいと、私は神様に言った。
だけど神様は、ただ悲しげに首を横に振った。
神様が振った首の意味を、私は暫く考えた。
それが不可能を表すのか。
或いは単なる制止を表すのか。
空はみるみる曇って、大雨と雷になった。
でも結局、私の出す答えは決まっていた。
神様は私に信じなさいと言った。
信じれば必ず救われるのだと言った。
つまりこうだ。
神様を信じれば虹の向こうに連れていってくれる。
大嵐の中を、私は這っていった。
すっかり日は落ちて、道は定かでない。
だが今までいた場所から逃げるように這った。
雷鳴は私を嘲笑う運命の声。
雷電は私を差す運命の眼差し。
突風は私を弄ぶ運命の指。
その全てが私の命を削っていくような錯覚。
だけど一人じゃない。
神様は言った。
辛いことの後には楽しいことがあると。
寒く刺々しい大雨の後には美しい虹が架かる、と。
死に物狂いで這っていった私の右手で、夜は明けた。
太陽の光に驚くように、あの暗雲が去っていく。
そして。
顔を上げた私の目の前に、虹が架かっていた。
普段私の届かない高いところにあるはずの虹。
それが、崖の淵から青空の高みへと伸びている。
形容のしようが無いほどにそれは、美しかった。
そして私は理解した。
自分は遂に、神様の国の入口に立ったのだと。
青空の彼方から、ほんの微かに鐘の音が聞こえる。
沼地の中では無かったものが、この虹の先にある。
きっと私の腕が、脚が、失った全てがそこにある。
嬉しくて、崖の端から勢いよく飛び出した。
なのにそんな私を、虹は受け止めてくれなかった。
腕も脚も無い私は、虹に触れることが出来なかった。
為す術も無く、奇妙な諦観にすっぽり包まれて。
後は重力に引かれて地面に落ちるのを待つだけ。
無意識に私は、視線を空へと走らせていた。
虹は沼地で見たのと同じように遠く、小さい。
澄み渡った青い空は、憂鬱げな色を帯びて見える。
ふと思った。
雷鳴は神様が必死に呼び止める声で。
雷電は神様の精一杯の警告で。
突風は神様が私を抱きしめようとした腕で。
そして大雨は。
神様が止まらない私を憐れんで流した、涙。
どうして気付けなかったんだろう。
神様はあんなにも沢山の啓示をくれたのに。
どうして信じられなかったんだろう。
だけど、思い付いた答えはとても簡単だった。
それはきっと。
私が神様のことを。
好きだった、から。
暴風に身を煽られ、天地を揺るがす衝撃の後。
気付けば私の五感は虚無によって支配されていた。
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