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【2025/07/05 08:14 】 |
間奏
あーい、ご無沙汰ですシーナです。一応弁解をば。



 今回のはさして深い意味はないです。記述模試で時間が余った時に走り書きしたものを膨らませました。鬱々としたものを書きたくなる時と、取り敢えずかっこよさげなことを言えれば満足な時が半々に来るタイプなんで、今回は後半が回ってきてたのかなーっと。

 いや、まぁちょっと思うところはあります。今回の主題は「限りある命と表現・言論の自由」ってところです。うわぁ真面目だ!!って一瞬思っただろ。違います。くそ真面目に考え事なんかしたら成仏しますよ。

 自分は割と事あるごとに考え事をしますが、中でも多いのは罪、優しさ、愛、死、この辺です。厨二だね。だから今回は「死ってどこまでなんだろう」って。逆を取れば、「俺が『生きてる』と認識されるのはいつまでなのか」ってことですわ。意識が途絶えた時、生命活動が停止した時、まぁ色々ありますやん。俺の中での認識は「俺の思想が忘れ去られた時」です。俺の書いた文章や何かが残っているならば、俺という人間は断片だとしてもその中に生き続けるんだろうと思うんすよ。だから身体なんてものは結局、それを残す為のツールの一つでしかないと。

 だからそれが取り上げられちまう前に、俺はここにいた俺という人間を分割して、表現して、少しでもここに残しておきたい、と思うんです。生物が遺伝子残したがるようなもんなのかしら。そしてその内「残す」という行為は体の仕事、だから前者の「分割する」のは脳みその仕事で、「表現する」のは心とか魂とかの仕事なんじゃないかなと。

 この中で、唯一人間が本当に自由に使えるのは心だけなんじゃないかなって気がします。体も論理も、何らかの制限なしではいられないし、それだと多分まともに機能しないから。だから、せめて心だけは極力束縛のないように、思うまま感じるままでいられるように、そして俺という人間や俺が見る世界そのままを記していけるように、しておきたいかなぁって、気がするんですわ。こういうものを書く人間の端くれとしてというより、この世界に生きる人間の一人として、そうありたいなぁと。

 綺麗事ってか、絵空事なのかもしれないけどね。



 まぁそんな感じです。ではまた次回。

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【2013/09/16 22:00 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
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